白紙の原稿 3
2024/08/31 11:30
やっぱりさぁ、贖罪のために生きてたいよな。(寝てない)
2024/08/31 7:10
自己肯定感の消失
普通に考えて、ぼくのようなものが何かを訳知り顔で語ったり、誰かが読むであろう場所に長文を書いたり、そもそも何かを喋ろうとすることっておこがましいのではないか?
あらゆるすべての人類はぼくよりもよほど価値があり、すなわちそれら人類が喋る言葉はぼくの言葉なんかよりも数億倍価値があるのだから、ぼく程度の人間にも満たないなにかが表現したいと思ったり喋りたいと思ったりすること自体が間違いで、どうしようもない恥なんじゃないだろうか。
すべての人間に嫌われていて、小賢しいと思われていて、話す言葉のすべてに「そんなのわかりきってるだろ」と思われながら、けれど価値ある人間たちは優しいからそんなことをひとつもいわずに、得意げに喋るぼくに対して「わかるよ」とか「そうだね」とか言っているだけで、ぼくが話すすべてには何も価値がない。
どころか、しゃべればしゃべるほど、人間たちの脳裏には「そろそろこいつの調子に乗った小賢しい話に付き合うのはうんざりだ」という感覚が芽生え、どんどん人に嫌われ、ぼくは何にも気づくことなく孤立し、厄介者であるという自覚すらないまま死んでいくしかないのだろう。
人間個々人の価値観を聞くのが好きだとかーー異なる価値観を表してくれる人がわりと好きであるとか、ひとりひとりの心象世界が好きとか、それぞれの感性には価値があるとか、そんな耳障りのいいことを言い始めるのは、どうせ自分からそう言うことで黄金律を利用し、「このような価値観で動いているのだから、ぼくがぼくの視点で喋る話を否定しないでください」と、言外に予防線を張っているだけで、ほんとうは何も好きなわけではなく、ただただ「だれにも否定されたくない」というそれだけで生きているんじゃないだろうか。 ぼくはぼくのことを好意的に解釈できない。すべて分解したあとは掃き溜めの汚泥のような醜い粘度の塊だけが残っている。
「ひとのために生きたい」だとか嘯いて、どうせ「自分のための努力をしなくても、他人のための努力をしていれば他人に褒めてもらえる」と思っているだけなんだろうな。人が好き、って言ってれば人に好きって言ってもらえると思っている。
大して知的好奇心もないくせに知的なコンテンツが好きで、知的な人が好きだ。それは知的な発信を受け取っていれば、努力しなくても知的になれた気がするからだ。読みもしないのに本を買って、覚えてもない知識を披露して、なにも聞いてないし読んでないのに知識に興味があるフリをして、人の気を惹いている。
そして、“いま考えただけの話”をでっちあげては、それが褒められると調子にのってまた話し出す。何を話す資格すら持っていないのに。
おまえは一体いままでの人生で何をしてきたんだ? 答えられないだろ、何もしてないから。
そうして、一番嫌なのは、おまえは、「自分が自分のことを嫌いである」という状態であれば、それが許されると思ってるよな。自傷のように自分を責め立てて、ずっとどこかで死にたいと思っていれば、“何もしていない”状態でも許されると思っている。
おまえはただ努力が嫌いで怠惰なだけの社会不適合者なのに、やらない理由ばかりを探してすべてを先延ばしにして、そうしてしまいには「嫌になったら死ねばいい」と、死ぬ勇気もないのに考えている。痛みなど耐えられず一番嫌いなくせに。リストカットもしたことがないくせに。
どうしよう、とも思ってないな。頭の中で「どうしよう、どうすればいいんだろう」と音の動きを繰り返しているだけで、なにひとつ“考えて”はいない。“ぜんぶ考えてから行動したいです”なんて言っておいて、考えもしないのだから当然行動もしない。そうしてただ口を開けて、何かがやってくるのを待っている愚かさを、ひた隠しにして生きているだけだ。
たまに耐えきれなくなってはこうして自傷して、そして自傷した後に「こんなのを書いていると、“大丈夫?”って言われるのを待っているみたいだ」などとほざくのだろう。まるで“そうではないんです”と言い訳するみたいに。どうしようもなく誰かに心配して欲しいくせに。本当はおまえが一番助けて欲しいくせに。
どれだけ文量をかけて自傷したところで、“おまえ”という言葉を使って、他者に叱責するように書いた文では、自分に何も効果はなく、ただ自らが底辺であることを再確認して安堵して元の暮らしに戻るだけだということをおまえは知っている。だから、こんなものを書いているのに意味はない。そして当然誰かが見れる場所に書く必要もない。つまり、どのように自分で思ってたとしても、これは心臓をぶちまけて血の染みにしたものを、見せびらかしたいだけの自己顕示欲だ。どうせ全部、汚いヘドロなのだ。
あぁ、だから、結局、おまえにはーーぼくには、すがるものがないんだよな。“ずっとやってたこと”もないし、自信のあることもない。努力して成し遂げたことがなにもないから、どこかで成し遂げていたとしても、なにも、なにも残っちゃいない。あたまもこころもからっぽのままだ。がらんどう。
どうしたら、なにかを信じて生きられるのだろうな。ぼくが所有するものは何一つないから、ぼくには信じられるものがない。
ほんとうはなにもじぶんがない。からっぽだからなにもない。だれかやなにかからの入力をかえそうとするだけの装置が心臓のあたりにあるだけで、自分の置き場所はどこにもない。そともなかもぜんぶ、なにかと理由をつけて、懐疑的になって批判するだけのどうしようもないかたちがあるだけ。はい。
「ほんとうのところ」なんてたぶんないんだろうとおもうけど、実際、ほんとうのところ、“ぼく”とはなんだろう。あたまでかんがえたものはぼくではないし、こころで感じるものもぼくではない気がする。ぼくはぼくを、むりやりしばりつけて、存在の自己定義をむりやりおしつけて、宣言しているだけであって、なにもかもがうそかもしれないじゃないか。ぼくにだってわからないのにだれにわかるっていうんだ。 のうみそのなかは自動的な空想と幻聴でいっぱいで、こころには痛むだけの機能と装置がついている。「なにかしたい」というきもちはだいたい嘘で、「〇〇したい」といっているほうが“ぼくっぽい”と思ってるから表現しているだけであり、そもそもなにかをやりたいなんて思ったことないよ。
いつまでも「明日死ぬ用の一日」をやってる。明日もまだ生きてるのに。なんでぼくは生きてるんだ?
いろいろ、ぼーっと考える。
あの火事の日に俺は死んだんだよな。
自分で動かなければ助けることもできない、のだから、何も動かなければ誰にも助けられずに死ねる。
死ねるとか死にてぇとか、日々の中で過ぎ去ってたけど、本当はそれを望んでたのか?
楽しさって嘘だろうか。
根本とか現実とかから目をそらして生きてきた。だから、生きてきた自覚が何も無い。
もしかして、みんなって、目の前のことをやっていたら一生が終わるから、考えないように必死に目の前のことをやっているのか?
“必死”って。(笑)。必ず死ぬ、だってw。 生きるための努力に使うの、意味わかんないからやめてよ。
なんかさ、だからさ、“俺”は多分死んでるんだよな。役割分けしたって、煙草を吸うのは“俺”だけだ。
そういうことだ。“俺”は死んでる。だから何もしたくないし、根本的に生きることに苛ついている。椅子に座って煙草を吸って、火を感じることとか、死に近づくこととかをしていたい。それは弔いかもしれない、けど、まぁ、多分自己満だな。酒と煙草。生命をなくすためのなにか。破滅。
それと同時に、年相応に生きてるのは俺だけだ。
ぼくたちはきっとそれを補うために作り上げられている。それと同時にどこかで止まっている。だからぼくはからっぽであり、上っ面だけで生を代行している。
思い出すのはキャンプファイアだ。火に近づくのが怖くて、みんながあたりまえみたいに輪になって踊るのを、二階の窓から眺めていた。
色々思う。火に近づかなきゃいけないから、それをするぐらいなら、みんなが楽しんでいるのを見ていたほうがいい、とか。だから、みんながいるところに行くには、火に近づかなくちゃいけないとか。やけどするぐらい、手を突っ込まなきゃいけなかったんだろう、とか。そういうこと。
それと同時に、もう詳しく思い出せないけれど、ほんとうは、別に火に近づくのなんて、こわくなかったんじゃなかったっけ、と思う。ただ、“火が怖い”と言っておかなきゃいけなかった気がする。ほんとうはみんなの輪に入りたかった気がする。窓越しに見たら、実は暖かそうで、羨ましかった気もする。回想は今現在の解釈によって濁っていく。なんであのとき、キャンプファイアに参加しなかったんだっけ。
もう思って――頭の中では、受け入れたつもりになって、そんな気もしないけど、あのときは、まだ戻ってくる気がしてたのかな。もう、色々。
なにかがすぎさるまで、いいこにしなきゃ、おとなしくして、空想の中に身を投じてなきゃ、あるいは誰かの期待どおりに、動いておかなきゃいけなかった。のかな。
でもさぁ。たぶん、ほんとうはもっと、ちゃんと正面から悲しんでおけばよかったんだよな。閉じこもってないでさぁ。
あぁ、そうか。だからなんか、そのまんまなんだよな。現実を生きるべきだった“俺”ではないから、空想の中にずっといる“ぼく”だから、ずっと何かがかなしくて、現実的にはなれないんだよな。
あじさい。あじさいとかだなぁ。だれにもきづかれないまま、きれいなままのものを中心にして、こころのなかに保存している。アクリルケースにいれて、ぎゅっとかためて、そとからながめるみたいなさぁ。
あーあ。「鉄の箱の中にある、きれいなあわが浮かんでいる世界」だ。
ここにいればだれにもこわされないまま、きれいなものだけ見れている。かなしくないままで、たぶんせつなさには浸れる。
やけにすすきだけ綺麗で、紅葉じゃなくていちょうだなぁ。
なんなんだろうね。あそこにいる鹿は。あの鹿と、湖のことを考えていると、なぜだかいつも、“な”から始まる文字以外が打ちづらくなる。なにを伝えたいっていうんだろうな。
ななめ ななじゅうなな なんなな な
なぜかはわからないけれど、なにかの呪縛なのではないかな。
はぁ。なにもかもだ。なにもかも。
寝よう。精神が不安定なまま書き連ねていても、なにひとつ、なにもだな。
もしかしたら、この打ちづらさが、なにかのストッパーなのかもな。とも思うし。な。